こどもたちへおくりたいほし

How to present children with this planet

たましい

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I write. I write for myself.

 

じぶんのために じぶんのことばを じぶんのいけんを はっしんしています

 

どうして書くのか。こんなこと書き続けるなんてことしなくてもいいかなと思うときは多々あります。わたし自身は幸せで、なんにも困っていないです。幸せを継続したいならば、たいていは、まわりの人との和を重んじる方向性を選ぶものでしょう。


テレビを見て、ふーんえらい人たちがそれがいいっていうならそれでいいんじゃない。わたしなんかにはわかりません。わたしなんかに考える価値はありません。ねー🌼(まわりと頷きあう)


一方で、発想は絶えず絶えず止まりません。別に消したって良いわけです。週5日働く主婦が書き物に割ける時間はわずかです。恥ずかしい思いしてまで、時間を削ってまで、書かなくていいかな(笑)と思う日々です。


思慮も裏づけも浅いですし、誰かを傷つけていないかなって気になりもします。暴くとは暴力・破壊行為のひとつであって、一種の戦いなのです。戦いは戦いを生みだします。(現実は自分の反映だという前提で考えれば)裁くエネルギーは、裁かれる人を生みだします。


書けば書くほど、重い気持ち、悶々とする気持ちを、自分の中に発見しました。発見しては手放す機会にしています。手放すと自分の中からなくなります(笑)発見しないと手放せない、持ったままです。実は内面に持っていた重い気持ちを発見するために書いているところがあります。


スピリチュアルの視点にそれてしまって申し訳ないです。個人的には、スピリチュアルというフワフワした言葉はあまり好きではないです。非現実的で、危ういような。


体・頭・心と付き合う、向き合う術について、ちまたに情報は溢れています。生きるうえでとても便利です。魂と付き合う、向き合う術も同じようなものだと私は捉えています。現実としてとても便利です。今後ますます普通に活用されるようになっていくのであろうと思います。


さて、なぜ書くのか。私のアイデアは、私が書かなければ、誰も書いてくれません。テレビ見てふーん、は、私がやらなくても誰かがやってくれます。私が私を生かさなければ、誰も本当の私と付き合うことはできず、偽物の私としか知り合えません。自分を生かす選択は実に大切なのです。

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