Have you ever talk with your grandparents about their war experience?
ひいじいちゃん ひいばあちゃんに
せんそうのはなしを きいてみよう
せんそうのはなしは
へいわのたいせつさ の はなし
太平洋戦争のさなか、強制収容所に生まれ、終戦後広島で育ち、再び米国へ戻り、複雑なアイデンティティーを持って生きてきた。真珠湾攻撃のあった12月7日になると普段仲の良い友達にまで「Jap!」と蔑称で呼ばれた過去。米国で不動産会社を営む日系3世の古本武司さん(74)の半生は、日本人に対する差別との闘いだった。「次世代の人たちに自分のような体験をさせたくない」との思いを胸に、戦争や差別のない世界の実現に向けて訴え続ける。
「私の家族は10日くらい前のnotice(通知)で、スーツケース1つで他は全部捨てて(収容所に)入りまして」。時の大統領令で強制収容が認められ、家族は皆、米西部カリフォルニア州にあるトゥーリーレーク収容所に送られた。1944年、「そこで私は生まれました」。
終戦直後、古本さんが1歳の時に両親と共に祖父の出身地、広島市へ移り、小学5年まで過ごした。その後、姉の住むカリフォルニア州に両親と共に移住。まだ日本人への風当たりが強く、偏見を持たれる時代だった。「ちょうど中学校、高校、大学に行く前だから、私をいい学区に入れたいと親父も思っていたんです。でもなかなか日系人はいい場所に住めなかった」と振り返る。現在は厳しく禁じられている差別が公然と行われていたそうで、治安の悪いエリアでの居住を余儀なくされた。
入学後も差別的な扱いを受けた。12月は学校に行きたくなかった。真珠湾攻撃のあった月で、7日のPearl Harbor Remembrance Dayは「学校に行くのが一番嫌でした。その日は学校で、日本人がどういうことをしたかを言われ、『Jap, Jap! Why did you do that?』(ジャップ、ジャップ!どうしてお前たちはそんなことをしたんだ?)と友達にまで言われて…」。温和な古本さんの表情が一瞬、くもった。悔しさと悲しみがこみ上げる。逆境をばねに「いつか差別を乗り越えてやろう、見返してやろう」との思いを新たにした。
差別されないために
勉学に励んでUCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)を卒業、その後は志願して士官学校へと進んだ。「差別されなくなるため」に選んだ道だ。ベトナム戦争が泥沼化する中、戦場の最前線で「国」のために戦った。「よく戦ってくれた」と、周囲の米国人が古本さんを見る目が変わったと感じた。
敬意を勝ち得たが、代償は大きかった。「ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)を捕まえるのが私の役目で、そういう仕事をしていましたので…」と口ごもる。生還するも、戦争の悲惨さを目の当たりにして「少し頭が狂って帰ってきました」とPTSD(心的外傷後ストレス障害)にさいなまれた。「今も毎朝10個ほど薬を飲んでいます」と明かす。
帰国すると家族の住むカリフォルニアではなく、ニューヨークの隣、ニュージャージー州で自ら孤独な生活を選んだ。不動産業界に身を置くも、「戦争から帰ってきたばかりで普通じゃない状態でしたので。普通の社会とうまく調整がつかずに狂って、すぐクビになって」と苦しんだ。周囲と折り合えず、会社を転々とした。「PTSDだったと当時は全然分かりません。病気しているとかそういうことも分からなかった。単に生きていかないといけない、それで精一杯でした」